コラム

このページは、東洋医学(中医学)理論を解説するページです。『東洋医学について』、『東洋医学の基礎知識』、『東洋医学簡史』をベースに、『東洋医学コラム』、『養生』などを掲載いたします。

東洋医学簡史

東洋医学簡史「中国編」

戦国〜後漢の時代(BC475〜AD220年)

この時代に『黄帝内経(こうていだいけい)』、『難経(なんぎょう)』、『神農本草経(しんのうほんぞうきょう)』、『傷寒雑病論(しょうかんざつびょうろん)』という書物ができ、中国医学の基礎理論が確立されました。

この時代で一番の出来事は医と巫が分かれた事です。『史記』の『扁鵲倉公列伝(へんじゃくそうこうれつでん)』の中に六不治(ろくふじ)というのがあり、その1つに「巫を信じて医者を信じない」というのがあります。このことは、明確な医学理論とそれに基づく治療技術がこの時代に確立されたということでしょう。

『黄帝内経』
黄帝内経素問

『黄帝内経素問校注語訳』
郭靄春 編著
天津科学技術出版社

現存する本格的な中国医学書としては最古のものがこの『黄帝内経』です。この黄帝内経から東洋医学が始まったといっても過言ではありません。古いということだけなら1973年に馬王堆(まおうたい)より出土した「五十二病方(ごじゅうにびょうほう)」「足臂十一脈経(そくひじゅういちみゃくきょう)」「陰陽十一脈経(いんようじゅういちみゃくきょう)」などがありますが、「五十二病方」はまじないが含まれ、「足臂十一脈経」「陰陽十一脈経」は、経絡が十一しか記述されていません。「黄帝内経」では経絡のほか、経筋、皮部、経別について述べられており、より詳細な経絡システムとなっています。

内容は、黄帝(伝説の聖人)と岐伯(ぎはく)や雷公などとの問答形式で書かれ、成立年代は戦国時代から後漢ぐらいまでに、多くの人の手によって作られたものです。

『漢書』(『史記』と並ぶ、中国・後漢の歴史書)のなかにあげられている東洋医学の本は、『黄帝内経』のほか、『黄帝外経』、『扁鵲内経(へんじゃくだいけい)』、『扁鵲外経(へんじゃくがいけい)』、『白氏内径』、『白氏外経』がありますが、現代まで伝わっているのは『黄帝内経』のみです。もったいない話ですね。

「難経」

『難経』は『黄帝内経』にたいして、難(疑問)を問うという意味で、八十一項目の問答形式になっています。扁鵲(伝説の名医)が書いたとされており、黄帝内経では書かれていないいくつかの点をつけたし、東洋医学を完成に近づけました。

『神農本草経』

中国に現存する最古の薬物学の専門書です。「伝説の神農が百草を嘗め、毒にあたりながら薬効を調べた」という故事に基づいて名がつけられました。

『傷寒雑病論』

後漢の名医張仲景によって著されました。『黄帝内経』を理論的な指針とし、後漢時代以前の幾多の医家の臨床経験を総括したもので、中国医学の発展に多大な貢献をし、中国医学史に一つの金字塔を打ち建てた書物です。この『傷寒雑病論』は散逸し、後に『傷寒論』と『金匱要略(きんきようりゃく)』として世にでます。

魏・晋・南北朝の時代(220〜581年)

この時代は『脈経』による脈学の総括と『鍼灸甲乙経(しんきゅうこうおつきょう)』による鍼灸理論の系統化、『呉晋本草』、『本草経集注(ほんぞうきょうしゅうちゅう)』などによる薬物学の進歩がありました。

『脈経』

王叔和(おうしゅくわ)の著。それ以前の脈に関する諸説を総括し、系統立てたもの。

『鍼灸甲乙経』

皇甫ヒツの著。黄帝内経を基礎として発展させ、鍼灸理論をまとめた書物。

『呉晋本草』

三国志に出てくる名医華佗の弟子である呉晋の著作。本草書で著者が明らかなのは、この本以降。

『本草経集注』

陶弘景の著。それまで系統的に整備されていなかった本草書を整備しました。

※この時代に『肘後備急方(ちゅうごびきゅうほう)』という医学の本が書かれましたが、作者は葛洪(かっこう)で『抱朴子(ほうぼくし)』(煉丹術の本)の著者でもあります。

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