コラム

このページは、東洋医学(中医学)理論を解説するページです。『東洋医学について』、『東洋医学の基礎知識』、『東洋医学簡史』をベースに、『東洋医学コラム』、『養生』などを掲載いたします。

東洋医学簡史

東洋医学簡史「日本編」

室町時代(1338〜1570年)

応仁の乱という長い戦乱の後、学問の世界は暗黒の時代となりましたが、足利学校や金沢文庫など諸侯のなかに学問を奨励するものがあり、完全に衰退することはありませんでした。

この頃、医学では、明より帰った田代三喜が李朱医学(金元四大家の李東垣、朱丹渓などの医学)を唱道しました。(田代三喜は12年間明で学んでいるんですよ〜。現在中国に留学している日本人は多数いますが、すでに室町時代に医学留学していたんですね。田代さんはエライ!!!)鎌倉、古河、武蔵などの東国に住み、一世を風靡し、日本における李朱医学(後世派)の開祖となりました。しかし、田代三喜は地方にいたため、彼の医学は日本全国には広まりませんでした。

安土・桃山時代(1570〜1603年)

この時代のトピックはなんといっても曲直瀬道三(まなせどうざん)の登場ですね。曲直瀬道三は田代三喜に学び京都に帰り李朱医学を広めました。曲直瀬道三により李朱医学が日本全国に広まり、これが日本漢方の大きな一つの流れとなり、これを後世派といいます。

面白いのは、この頃、甲斐に永田徳本という一服十八銭で諸国をまわって薬を売り歩いた名医がいて、徳川秀忠が病気になったとき、誰も治せなかったのを治し、秀忠が褒美を取らせようとしたのを一服十八銭と言い、薬代のみ受け取って去ったという話があります。(カッコイイ〜!!)

あと、戦国時代から金創医という刀傷、鉄砲傷を治す医者たちが出てきます。漢方で刀傷、鉄砲傷も治せるんですよ。

鍼灸においては、入江流、吉田流が生まれました。入江頼明は、豊太閤の医官園田道保に就き、鍼術を受け、朝鮮の役の時、明人呉林達(ごりんたつ)の伝を受け、技術を深め名をあげました。吉田意休(よしだいきゅう)は出雲大社の祝(しゅく)でしたが、明に赴き、杏琢周(きょうたくしゅう)に七年学んで帰朝し、その技術を世に広めました。

この時期、御園流(みそのりゅう)打鍼術というのが生まれます。これは日本独自の画期的な鍼術で、金や銀の鍼を小槌で打ち込むものです。伝説では多田二郎為貞(ただじろうためさだ)という鍼の名人が、花園天皇が愛玩している牡丹が枯れそうなのを鍼をして治し、その褒美で御園という名をもらったそうです。(ほんまかいな)

別説では夢分斎という者があり、はじめ禅僧でしたが、いろいろな治療を受けても治らない自分の母親の病気を治すために様々な鍼を学び、打鍼術を開発し、その後に多くの人を治したというものです。(感動的な話ですね)

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