東洋医学簡史
東洋医学簡史「日本編」
江戸時代初期(1603年〜)
『医門法律』
(清)喩嘉言(喩昌)著
中国中医薬出版社
曲直瀬道三の門下からは多くの優秀な医師が生まれ、後世派の医術は、天下に広く行われました。名古屋玄医という人物があらわれ、喩嘉言(ゆかげん)の『傷寒尚論(しょうかんしょうろん)』、『医門法律』に基づき、張仲景、巣元方を師とし、古医方(古方派)を唱道しました。簡単にいうと、いろんな理論が出てきて理論先行になったのを、古典に立ち返り、臨床実践によって論を立てるべきであるという立場の人です。
鍼灸においては、幕府の命により杉山和一が鍼治講習の所を設け、鍼灸を業とする者のほとんどは、その門から出ました。いわゆる杉山流鍼術です。
杉山和一は、初め山瀬琢一に鍼を習いますが、「和一性鈍ニシテ技進ムコト能ハズ、遂ニ師ノタメニ遂ハル」つまり出来が悪かったため、師に破門されるんですね。和一は目が不自由だったため鍼しか自分の道はないということで、江ノ島の弁天様に詣で断食をしながら祈るわけです。そうすると夢の中に鍼と管が出てきて、そこから鍼管によって鍼を刺入する方法が出来たという伝説があります。(鍼管によって鍼を刺入する方法は、中国鍼術にはない日本独特のすぐれた技術ですが、こんな不思議ないわれがあるんですね。)
江戸中期
古方派で後藤艮山(ごとうごんざん)が登場します。古方派は名古屋玄医によって唱えられ始めるのですが、その時には広まらず、後藤艮山によって広まっていきます。彼の門下からは多くの優秀な医師が輩出されます。彼は一気留滞説を唱えます。これは、簡単にいうと、病は気の留滞によって生じるという説です。温泉、熊の胆、お灸を用いることが多く、湯熊灸庵と呼ばれました。
さらに、古方派の大家、吉益東洞(よしますとうどう)が出て、万病一毒論を唱えました。これは、病は毒によって生じ、毒(薬のこと)をもって毒(病のこと)を制するという考え方です。
鍼灸においては菅沼周圭(すがぬましゅうけい)が鍼灸復古を唱えます。
江戸後期(〜1868年)
この時代は折衷派が一つの大きな流れとなりました。これは漢方の古今諸説を偏取しないという考えかたです。多紀元簡(たきげんかん)、多紀元胤などがその代表です。この流れから、後に大正天皇を治して有名になった浅田宗伯が出ます。(医者というより浅田飴の方が有名かも。ニッキ!クール!パッション!いろんな種類がありますね。私はニッキ派です)
もう一つは漢蘭折衷派という流れがあります。漢方と西洋医学の折衷で、これは江戸中期の山脇東洋からの流れですが、この時代に大きな潮流となりました。
鍼灸では石坂宗哲(いしざかそうてつ)が有名で、独自の理論を持ち、石坂流鍼術といわれています。シーボルトに鍼を伝えたことでも有名です。
明治時代以降(1868年〜)
ペリーの来航により、開国を余儀なくされ、富国強兵の号令のもと、西洋式の軍隊を導入するに及び、医学においても、西洋の医学を導入するという政府の意向となりました。西洋医学を学ばなければ医者の看板をあげることができず、東洋医学は医学の中心からはずれることになりました。
現代における日本の東洋医学事情
近年、欧米を中心に、漢方薬、鍼灸などの東洋医学が、すぐれた医療技術として認知され、積極的に取り入れられています。一方、日本では、漢方薬は一部保険適用され、医師の処方のもと、西洋薬の補助的役割として、医療現場に取り入れられています。
鍼灸は、1993年に国家資格化され、国家資格を有していれば、鍼灸院を開業することが可能です。しかし、長い伝統で培われた理論と実績が高く評価されているかというと、現状はそうともいえず、鍼灸のすばらしさを知るものとして、残念な状況です。このウェブサイトを通して、少しでも東洋医学の良さを知っていただき、鍼灸が、みなさまの身近な治療として理解してただけるよう、情報発信をしていくつもりです。
最後に補足ですが、「現代における中国医学」でご説明したように、「中医学」という言葉は、毛沢東以降に成立した中国伝統医学体系を指します。しかし、当サイトでは、「中医学」だけでなく、歴史ある中国や日本の伝統医学についても情報を提供していきたいと思っています。
以上で東洋医学簡史を終わります。
参考文献
『日本医学史』富士川遊著、日新書院

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