「院長の独り言」年度別

「院長の独り言」を時系列でご紹介しています。鍼灸・東洋医学に対してもっと身近に感じていただこうと、一般の方にわかりやすく鍼灸・東洋医学にまつわるトピックを中心にお届けします。民間薬草や健康食材にまつわる話、鍼灸・東洋医学・健康に関する一般書などもあわせてご紹介いたします。

「院長の独り言」年度別

2016年7月~12月の「院長の独り言」

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張従正(2016年12月)

今回は金元の4大家の一人、張従正について簡単に紹介したいと思います。

張従正、字は子和、自ら戴人と称した。金代、ショ州考城(現在の河南省蘭考県)の人。金の興定年間に召しだされて太医院の職に就くがすぐに辞職して郷里に帰り、麻知幾、常仲明などと医学を議論し『儒門事親』を著しました。

張従正は劉河間の影響を受け、邪気を病気の原因と考えました。

もともと人体には邪気が無いが、季節や天候など外から来たり、飲食など内から生じた邪気によって病気になるので、邪気を体内から速やかに排出し体内に停留させないというのが張従正の説です。

邪気を排泄する方法として汗・吐・下の三方を上げています。

汗方は汗により邪気を排出させる方法、吐方は口から吐かせることにより邪気を排出する方法、下方は大便により邪気を排出する方法です。

中国医学の歴史張従正はこの汗吐下の三方を広く解釈し、よだれ・くしゃみ・涙など上行するものはすべて吐方であり、蒸・灸・はり・あんま・導引など表を解するものはすべて汗方であり、乳・月経・尿・屁など下行するものはすべて下方であるとしました。

張従正は後世から攻下派と呼ばれ、支持する人たちと否定する人たちがいますが、こうした学術上の論争が東洋医学の発展に大きな役割を果たしたことは間違いありません。

参考文献

『中国医学史講義』(北京中医学院主編、夏 三郎 訳、燎原書店)
『中国医学の歴史』(伝 維康、 呉 鴻洲 編、川井 正久、山本 恒久、川合 重孝 訳、東洋学術出版)

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朱震亨(2016年11月)

中医趣談

今回は金元の4大家の一人、朱震亨について簡単に紹介したいと思います。

朱震亨、字は彦修、号は丹溪、元の時代、ブ州義烏の人、若い頃は経書や歴史を学び、30歳から医も学びますが、36歳のとき朱熹の4代目の弟子の許謙の門下となり、当時としてはそれなりの理学家(儒家)になります。

中年の頃、疫病が方々で起き親族の多くが亡くなったので、医学に専心します。

あるとき、名医羅知悌の話を聞き、弟子になろうとして門前で三カ月待ち、ようやく弟子になれます。

朱震亨は劉完素、李杲らの精華を学び、重要な学術成果として相火論を打ち出し、臨床上は滋陰降火を提唱します。

そのため滋陰派と後世から呼ばれます。

相火論は陽は常に余りあり、陰は常に不足するというもので、陰を補うことを重視する滋陰降火の薬剤をよく用いました。

中国医学の歴史朱震亨は浙江一帯に名が知られるようになり、治療を求める者が後を絶ちませんでした、当然収入も増えましたが、朱震亨は相変わらず質素な生活のままであり、医の求めがあれば何処へでもすぐ出かけました。

これは朱震亨の医徳を示す話だと思います。

ちなみに、朱震亨や李杲の学説は日本に伝わり、日本の漢方の流派である後世派の重要な理論の柱となりました。

参考文献

『中医趣談』(広西師範大学出版部)
『中国医学の歴史』(伝 維康、 呉 鴻洲 編、川井 正久、山本 恒久、川合 重孝 訳、東洋学術出版)

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李杲(2016年10月)

中医趣談

今回は金元の4大家の一人、李東垣について簡単に紹介したいと思います。

李杲(1180~1251年)は字を明之といい、晩年東垣老人と号しました。

金代、真定(河北省正定県)の人です。

李杲は富豪の家に生まれましたが、幼少の頃母親が医者の誤診のため亡くなりました。

それで医学を志し、大金をなげうって易水学派を創始した張元素に師事し、易水学派を代表する人物となりました。

中国医学の歴史李杲は張元素の説を独自に発展させ、元気の大本は脾胃にあるとし脾胃を高めて元気を高めるという脾胃論を唱え、後世から補土派と称されています。

ちなみに李杲の師で易水学派を創始した張元素は、27歳のときに進士の試験に落第しその後医学を志し、医を業としてから20年程後に独自の臓腑学説を打ち出し、それが現在の臓腑弁証の基になっています。

李杲はその学説を受け継ぐなかで正気の虚、特に脾胃の虚を重視しました。

後代の易水学派の中には腎や命門の虚にも注目するようになります。

つまり易水学派は臓腑の虚損を重視した臓腑弁証の学派と言えると思います。

参考文献

『中医趣談』(広西師範大学出版部)
『中国医学の歴史』(伝 維康、 呉 鴻洲 編、川井 正久、山本 恒久、川合 重孝 訳、東洋学術出版)

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劉完素(2016年9月)

中医趣談

今回は金元の4大家の一人、劉完素について簡単に紹介したいと思います。

劉完素は字は守真といい、自ら通玄処士と号しました。

金の時代の河間(河北省河間県)の人なので、後世に劉河間とも称されます。

劉完素は終生医理医道を研究し、25歳から還暦の年まで『素問』を手放さず研究し『素問玄機原病式』、『黄帝素問宣明論方』等の著作があります。

劉完素は熱病の治療にたけていたので、時の皇帝、金の章宗完顔が三度招聘したが、彼はその都度仕官を断ったそうです。

中国医学の歴史劉完素は臨床実践から、それまでの医家が五運六気説を機械的に運用していたのを批判し、六気は皆火化し、火熱は多くの疾病をもたらす重要な原因となるという火熱論を提唱しました。

それで「熱病の宗はは河間にあり」といわれるほどの評価を受けています。

また、劉完素は様々な病気を治療するとき、清熱通利を重要視し、寒涼の薬をよく用いたので寒涼派とも称されました。

中国の金元や宋は自由な発想で様々な学説が生まれた時代でした。

古典の解釈も考証学的に一字一句正確に読み取ろうとする漢学的なものもとても大事ですが、新たな発想で古典を解釈するということも学問としての裾野を広げ、東洋医学の幹を太くするものだと思います。

参考文献

『中医趣談』(広西師範大学出版部)
『中国医学の歴史』(伝 維康、 呉 鴻洲 編、川井 正久、山本 恒久、川合 重孝 訳、東洋学術出版)

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孫思バク(2016年8月)

中医趣談

今回は孫思バクについて簡単に紹介したいと思います。

孫思バクは京兆華原(今の陝西省耀県)の人で隋文帝の開皇元年(581年)に生まれ、唐高宗の永淳元年(682年)に没し、享年102歳の長寿でした。

孫思バクは幼少の頃病弱であったため医学を志し、死ぬまで医学の研鑽を積み、唐代以前の医学を集大成しました。

孫思バクは『備急千金要方』(略して『千金要方』)と『千金翼方』(併せて『千金方』と称する)を著しました。

書名の千金は「人の命は千金よりも貴重である」というところからきています。

孫思バクは医徳の修養を重視し、『千金要方』に医者になるのはかなりの医学の修養が必要で、また名利を求めず労苦をいとわず病人に奉仕する精神が必要と書かれています。

実際、孫思バクは医学以外にも広く学問に通じていたため、統治者から官に就くよう要請を受けますが、それを断り医学の道を貫きます。

中国医学の歴史『千金方』は孫思バク自身の経験だけでなく、他の医家の経験も広く収集しており、また薬物に関しては記載が500種類以上にのぼり、採集の仕方や加工の仕方についても詳しく記したので後に薬王と尊称されます。

孫思バクは医者の徳を非常に重要視していますが、鍼灸師においても単に学術を身に付けているだけでなく、人間性(徳)をも含んだ総合的な力が大事なのはあらためて言うまでもないことですね。

参考文献

『中医趣談』(広西師範大学出版部)
『中国医学の歴史』(伝 維康、 呉 鴻洲 編、川井 正久、山本 恒久、川合 重孝 訳、東洋学術出版)

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葛洪(2016年7月)

中医趣談今回は葛洪について簡単にですが述べてみたいと思います。

葛洪は字は稚川、号を抱朴子といい、丹陽郡句容県(江蘇省江寧県)の生れ、生年はよく分かっていませんが晋の太康4年頃と考えられています。

一般的には、それまでの道教・神仙思想を集大成した『抱朴子』を記したことで知られています。

『抱朴子』は内篇と外篇に分かれ内篇は道教・神仙思想が書かれ、外篇は儒教的なことが書かれているので厳密には『抱朴子』は道教・神仙思想だけの書物ではなく幅広く葛洪の知識・思想が書かれた書物になります。

葛洪の仙術は、左慈→葛玄→鄭隠→葛洪と伝わったとされています。

ちなみに左慈は小説『三国志演義』にも登場する有名な仙人で、葛玄は葛洪の曾祖父の子供で親類にあたります。

そんな道教・神仙思想の大家である葛洪ですが、現存する医書『肘後備急方』を記しています。

中国医学の歴史『肘後備急方』は、現在は失伝している葛洪の『金匱薬方』(『玉函方』ともいわれている)という膨大な書物を持ち運びしやすいようにコンパクトにまとめたもので、後に陶弘景が増補して『肘後百一方』を、金代の楊用道がまた増補して『附広肘後備急方』となりました。

また、葛洪の妻の鮑姑は、特に灸治療の方面で突出した医師であり、後に広州越秀山の麓の三元宮に鮑姑殿が設けられ鮑姑を讃えるための金の像が造られました。

『肘後備急方』の中に灸法の記載があるのは夫婦二人の協力によって為されたものだと思われます。

葛洪は、道教・神仙思想だけの研究家ではなく、夫婦で志を同じく医術を行い、人々を救った医家でもあったんですね。

参考文献

『中医趣談』(広西師範大学出版部)
『抱朴子・列仙伝』(尾崎 正治、大形 徹、平木 康平著、 角川書店)
『中国医学の歴史』(伝 維康、 呉 鴻洲 編、川井 正久、山本 恒久、川合 重孝 訳、東洋学術出版)

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