「院長の独り言」年度別

「院長の独り言」を時系列でご紹介しています。鍼灸・東洋医学に対してもっと身近に感じていただこうと、一般の方にわかりやすく鍼灸・東洋医学にまつわるトピックを中心にお届けします。民間薬草や健康食材にまつわる話、鍼灸・東洋医学・健康に関する一般書などもあわせてご紹介いたします。

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2009年1月〜6月の「院長の独り言」

『FLOW 韓氏意拳の哲学』(尹 雄大著、冬弓舎)(2009年6月)

今回は最近読んで面白かった『FLOW―韓氏意拳の哲学』という本について述べたいと思います。

著者はライターで、意拳という中国武術を習うなかでいろいろ思索したことを書いています。

私は武術に関しては全くの門外漢ですが、鍼灸という広い意味で同じ東洋文化を学ぶ者として面白く読ませていただきました。

これまでも東洋思想と武術の関係についてはいろいろ謂われていたようですが、それは精神面についてだったり、歴史的背景としてだったりで個々の技術レベルにまでいくとどちらかというと関係が薄いようでした。

本書では個々の技術というか動きがどうあらねばならないかということが、東洋思想との関係から書かれています。

個々の技術を東洋思想的にまたは物理的にどう解釈するかよりも東洋思想の本道を発現するには個々の技術がどうあらねばならないかということが大切だと思います。

ここでの東洋思想の本道とは自然の発現で、当然身体を含めた自然です。

では自然な振る舞い、動きとは何なんでしょうか。

著者はただ手を挙げるにも自然に挙げるのは難しいといいます。

自然に振舞っているつもりでも自然でない動きをしている。

それは日常の習慣による体癖(体の歪み)だったり心や意識により本来の自然が阻害されているというこです。

つまり自然な動きを阻害している要因を取り除き本来の自然な動きを発現させることが大切だと思います。

そのために感覚(本書の中では体認という用語を使い感覚と明確に分けていますが一般的ではないのでここでは感覚とします。)と形を物差しにします。

そういった過程を経て最終的な目標を「あるがままの自分を100%出す」というところにおいています。

本の面白さがうまく伝えれたかどうか解かりませんが興味のある方は読んでみたらいいと思います。

『宋以前傷寒論考』(岡田研吉・牧角和宏・小高修司著、東洋学術出版社)(2009年5月)

先日、知人から勧められまして『宋以前傷寒論考』という本を読みました。

専門家向けのかなりマニアックな本なので一般の方には少し難しい内容なのですが、非常に面白かったです。

『傷寒論』という東洋医学の中でも非常に重要な古典の本があるのですが、その内容が宋の時代に大きく書き換えられたということを様々な文献を元に論証していくのですが、さしずめ証拠を元に犯人を見つけ出す推理小説を読んでいるようなスリリングな時間を過ごすことが出来ました。

幾つか書き換えられた点があるのですが、その一つに陽明病に対する認識の変化があります。

現在の傷寒論では「陽明病胃家実」(裏熱実証)ですが古い傷寒論では「陽明病胃中寒」と冷えの証なのです。

病邪が変化した為か、体質が変わった為か、気候が変化した為かとにかく熱化しやすくなった、それで陽明病の認識も胃中寒から胃家実に変化していったようです。

これは時代が古いから良いとか新しいから良いとかいう問題ではなくてその時代にとって意味のある変化だったということですが、このような歴史を知っていると『傷寒論』がより理解しやすいと思います。

ここからは想像なのですが、中国清の時代に温病というのが出てくるのですがもしかしたら熱化し易さがより進んだのが温病なのかなと思ったりします。

というのも温邪が多いはずのインドの香辛料は意外と辛涼ではなく辛温のものが多いんです。

辛涼のものはウコンぐらいでコリアンダー、シナモン、クローブ、ナツメグみんな辛温です。

まぁ、これはいくつもある可能性の一つですが・・・。

あと面白かったのは陽病と陰病に関する認識についてです。

現在は「陽病には発汗吐下、陰病には温裏」ですが古代は「陽病は発汗、陰病は吐下」となっています。

これは古代においては邪を攻めるのが主体で虚を補う考えは比較的新しいものだということです。

私の個人的な考えですが本来の東洋医学というか東洋医学の始まりはどちらかというと張従正のような邪を駆逐するもので、虚を補う考えは本来は気功などの養生派の考えだと思います。

道家(気功家)の守一の考えから一元の元気(人体の太極)を守り養うという考えが生まれそれが医家に流れ『医貫』を書いた趙献可のような医家が出てきたのだと思います。

長い東洋医学の歴史の厚みを感じさせる一冊でした。

鍼灸師も職人〜勘・感覚を磨くことが大切〜(2009年4月)

ユングはものを認識する仕方について感覚、思考、感情、直感の四つの方法があると言っています。

これらは単独で用いられるのではなく四つ全てが同時に認識するときに用いられますが人によりその割合に差が有り、そこからこの四つを性格分類に応用したりします。

私はユング心理学はよく知らないのですが認識方法が四つあるというこの考え方を面白いと思います。

私達は普段の日常生活や芸術などの場面で感覚、感情、直感が使われることはたくさんありますが、現代社会は科学技術に代表されるように思考という認識方法により重きがおかれているような気がします。

もちろん思考が悪いわけではなく有用な道具なのですから上手く用いるべきですが、他の認識方法ももっと活用したほうが良いと思います。

勘という言葉がありますが、昔の職人などはこの勘を磨いて優れた工芸品を作っていました。

この勘は直感というよりも感覚を磨いて作り上げるものだと思いますが現代でも東京大田区の町工場などで機械よりも細かく正確に研磨する職人さんがいるそうです。

鍼灸師も職人なのですから感覚を磨いて勘を作り上げなくてはいけません。鍼灸師たるもの、そのための勘・感覚を磨く道筋をきちんと考えるべきだと思います。

『易経』から考える〜変わるもの変わらぬもの〜(2009年3月)

中国の古典に『易経』という書物がありますが、これは占いの本でありますが深遠な東洋の哲理が書かれた本であるともされています。

私自身もこれまで何度かこの易にチャレンジしその度にはじき飛ばされていますが(笑)、この易には三義ありといいまして易は世界について三つのことを表現しているといわれています。

一つは変易、これは変わるということ、易は変わることを表しているというものです。

易(正確には『易経』)は西洋で変化の書(『book of changes』)と訳されていますが変化する世界を易は表しているところから付けられたのでしょう。

二つ目は不易、これは変わらないということ、易は変わらないことを表しているというものです。

先ほどの変易と矛盾するようですが東洋の哲理はこのように一見すると矛盾するような表現が多いですね。

三つ目が簡易、簡単ということ、易は世界は簡単、シンプルであるということを表しているというものです。

易の解説書(『易経〈上〉 (岩波文庫)』など)を読むと、森羅万象が刻一刻と変化している(変易)なかで変化しない法則がある(不易)、そしてそれは陰陽という簡単な二つの記号で表すことができる(簡易)と書かれていて、変易と不易が矛盾しないことと簡易を含めた三つの関係性を説明しています。

変わることと変わらぬことが並存するという視点に立てば生殖(生物が子孫をつくる過程のこと)などはそのさいたるものです。

馬でいえば雌雄がいて親とは異なった遺伝子を持つ子供が生まれる、つまり生殖は変わることです。(なかにはアメーバの分裂など無性生殖で単一の親から子へ同じ遺伝形質が伝達されるものもありますが特殊な例なのでここではふれません。)

でもその変わることは無制限ではありません。

雄ロバと雌馬との間の雑種でラバというのがありますがラバ同士の繁殖は不可能といわれています。 伝説のキマイラは存在できない、存在してはいけないということなのでしょうか?

馬は馬、ロバはロバでなくてはならない、変わらない変わってはいけないということなのでしょうか。

鍼灸などの伝統文化なども同じことが言えるかもしれません。

中国、韓国、日本で鍼の形や診断、治療方法が異なります。

同じ日本でもいろんな流派がありそれぞれ異なっています、なかには小児はりなど刺さない鍼もあります。

時代や地域によって様々に変わる鍼鍼、でも鍼としての共通性があり、変わらない鍼、変わってはいけない鍼。

変わるものと変わらぬものが並存する世界、面白いです。

気について(2009年2月)

東洋医学・思想において気というのはとても重要な言葉です。

今回は気という言葉が英語でどういうふうに訳されたかを『気の思想』(東京大学出版)のなかの附論『西洋文献における「気」の訳語』から羅列してみます。

ちなみに英語の日本語訳は参考として付けてみました。

breath息、呼吸、一息、瞬間、(風の)そよぎ、いぶき、しるし、生命
air空気、大気、空中、空、そよ風
vapour蒸気、水蒸気
stream流れ、小川、(人・ものの)流れ、傾向、風
vital fluid流体、体液、流動物、流動性の
temperature温度、体温、(感情の)強さ、高熱
energy精力、活気、勢い、元気、(活動)力
anger怒り、立腹(させる)
etherエーテル、(古い物理学で光,熱などの媒体とされた仮説上の物質)、精気、天空
force力、勢い、風力、腕力、暴力、圧力、武力、軍隊、総勢、集団、気力、たくましさ、支配[影響]力、勢力、説得力、効力、(ことばの)真意
material force (material)物質の、物質的な、肉体的な、世俗[物欲]的
vital force (vital)生命の[に関する]、生命の維持に必要な、不可欠な、致命的な、活気に満ちた、生き生きした
the prime force (prime)首位の、主な、最重要な、根本的な、最上の、優秀な、最良の、最初の、原始的な、素数の
circulatory system of the body肉体がもつ循環体系

いろんな訳がありますね。

当然ながら気という言葉そのものは英語にはありません。

私達が気という言葉を使うときも文脈によっていろんな意味を持ちますし、日本と中国でも日本では情緒的な使われ方、中国では動的なエネルギーとして具体的な実質を中に含んだ使われ方とちょっと異なるところがあります。

哲学としての気の概念も時代によって多少の変化があります。

このようなことがいろんな訳を生じた理由でしょう。

当たり前かもしれませんが英語のそれぞれの訳は気という言葉の持つ何かをちゃんと表しています。

私達が普段何気なく使っている気という言葉は解かって使っているのですが実はあやふやなところがあり、そのあやふやなところを知るきっかけとしてこのような英語訳は大変参考になります。

●参考文献

『EXCEED英和辞典』三省堂

気の思想―中国における自然観と人間観の展開』東京大学出版会

2009年新年のご挨拶 〜東洋医学で身体を観る〜(2009年年始)

明けましておめでとうございます。今年も無事に新年を迎えることができました。

これもひとえに患者さん、家族、友人など応援していただいている皆様方のお蔭です。これからも一歩づつ学術の向上を目指しつつ頑張りたいと思っています。

東洋医学で身体を観た場合、いくつかの見方があります。

一つ目は経絡というネットワークでの見方。

胃をレントゲンで撮りながら胃の経絡上の足三里というツボに鍼をすると胃の働きが活発に動く様子が見れます。胃に関係する神経は足に来ていませんのでこの現象は西洋医学ではうまく説明できないようです。

二つ目は部分と全体の関係で部分が全体を反映しているというかたちでの見方。

耳は胎児が頭を下にしている状態として身体全体を反映しています。これは耳だけの特異性ではなくて手、足、お腹などすべて部分は全体を反映しています。

もちろん、手は足やお腹とは異なりますから部分は部分としての独自性ももっています。西洋医学では手は単なる手ですが、東洋医学では手は手という部分であると同時に身体全体を反映した全体でもあり、経絡というネットワークで他の部分ともつながっています。

このように東洋医学での身体は経絡というネットワークの見方、全体が反映される部分としての見方、単なる部分としての見方など、それぞれが独立した法則で成り立つ多元的な身体です。そしてそれぞれの次元は基本的には独立しながらもつながっています。つまり身体は多元的でありながら一元的である。

そんなことを考えながら、今年は身体について東洋医学・思想を通してもう一度考え直したいと思っています。

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