「院長の独り言」ジャンル別

「院長の独り言」をジャンル別でご紹介しています。鍼灸・東洋医学に対してもっと身近に感じていただこうと、一般の方にわかりやすく鍼灸・東洋医学にまつわるトピックを中心にお届けします。民間薬草や健康食材にまつわる話、鍼灸・東洋医学・健康に関する一般書などもあわせてご紹介いたします。

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「院長の独り言」ジャンル別〜鍼灸・漢方・東洋医学・東洋思想・気功編

鍼灸・漢方・東洋医学・東洋思想・気功編 ―2014年-2016年―

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張従正(2016年12月)

今回は金元の4大家の一人、張従正について簡単に紹介したいと思います。

張従正、字は子和、自ら戴人と称した。金代、ショ州考城(現在の河南省蘭考県)の人。金の興定年間に召しだされて太医院の職に就くがすぐに辞職して郷里に帰り、麻知幾、常仲明などと医学を議論し『儒門事親』を著しました。

張従正は劉河間の影響を受け、邪気を病気の原因と考えました。

もともと人体には邪気が無いが、季節や天候など外から来たり、飲食など内から生じた邪気によって病気になるので、邪気を体内から速やかに排出し体内に停留させないというのが張従正の説です。

邪気を排泄する方法として汗・吐・下の三方を上げています。

汗方は汗により邪気を排出させる方法、吐方は口から吐かせることにより邪気を排出する方法、下方は大便により邪気を排出する方法です。

中国医学の歴史張従正はこの汗吐下の三方を広く解釈し、よだれ・くしゃみ・涙など上行するものはすべて吐方であり、蒸・灸・はり・あんま・導引など表を解するものはすべて汗方であり、乳・月経・尿・屁など下行するものはすべて下方であるとしました。

張従正は後世から攻下派と呼ばれ、支持する人たちと否定する人たちがいますが、こうした学術上の論争が東洋医学の発展に大きな役割を果たしたことは間違いありません。

参考文献

『中国医学史講義』(北京中医学院主編、夏 三郎 訳、燎原書店)
『中国医学の歴史』(伝 維康、 呉 鴻洲 編、川井 正久、山本 恒久、川合 重孝 訳、東洋学術出版)

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朱震亨(2016年11月)

中医趣談

今回は金元の4大家の一人、朱震亨について簡単に紹介したいと思います。

朱震亨、字は彦修、号は丹溪、元の時代、ブ州義烏の人、若い頃は経書や歴史を学び、30歳から医も学びますが、36歳のとき朱熹の4代目の弟子の許謙の門下となり、当時としてはそれなりの理学家(儒家)になります。

中年の頃、疫病が方々で起き親族の多くが亡くなったので、医学に専心します。

あるとき、名医羅知悌の話を聞き、弟子になろうとして門前で三カ月待ち、ようやく弟子になれます。

朱震亨は劉完素、李杲らの精華を学び、重要な学術成果として相火論を打ち出し、臨床上は滋陰降火を提唱します。

そのため滋陰派と後世から呼ばれます。

相火論は陽は常に余りあり、陰は常に不足するというもので、陰を補うことを重視する滋陰降火の薬剤をよく用いました。

中国医学の歴史朱震亨は浙江一帯に名が知られるようになり、治療を求める者が後を絶ちませんでした、当然収入も増えましたが、朱震亨は相変わらず質素な生活のままであり、医の求めがあれば何処へでもすぐ出かけました。

これは朱震亨の医徳を示す話だと思います。

ちなみに、朱震亨や李杲の学説は日本に伝わり、日本の漢方の流派である後世派の重要な理論の柱となりました。

参考文献

『中医趣談』(広西師範大学出版部)
『中国医学の歴史』(伝 維康、 呉 鴻洲 編、川井 正久、山本 恒久、川合 重孝 訳、東洋学術出版)

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李杲(2016年10月)

中医趣談

今回は金元の4大家の一人、李東垣について簡単に紹介したいと思います。

李杲(1180〜1251年)は字を明之といい、晩年東垣老人と号しました。

金代、真定(河北省正定県)の人です。

李杲は富豪の家に生まれましたが、幼少の頃母親が医者の誤診のため亡くなりました。

それで医学を志し、大金をなげうって易水学派を創始した張元素に師事し、易水学派を代表する人物となりました。

中国医学の歴史李杲は張元素の説を独自に発展させ、元気の大本は脾胃にあるとし脾胃を高めて元気を高めるという脾胃論を唱え、後世から補土派と称されています。

ちなみに李杲の師で易水学派を創始した張元素は、27歳のときに進士の試験に落第しその後医学を志し、医を業としてから20年程後に独自の臓腑学説を打ち出し、それが現在の臓腑弁証の基になっています。

李杲はその学説を受け継ぐなかで正気の虚、特に脾胃の虚を重視しました。

後代の易水学派の中には腎や命門の虚にも注目するようになります。

つまり易水学派は臓腑の虚損を重視した臓腑弁証の学派と言えると思います。

参考文献

『中医趣談』(広西師範大学出版部)
『中国医学の歴史』(伝 維康、 呉 鴻洲 編、川井 正久、山本 恒久、川合 重孝 訳、東洋学術出版)

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劉完素(2016年9月)

中医趣談

今回は金元の4大家の一人、劉完素について簡単に紹介したいと思います。

劉完素は字は守真といい、自ら通玄処士と号しました。

金の時代の河間(河北省河間県)の人なので、後世に劉河間とも称されます。

劉完素は終生医理医道を研究し、25歳から還暦の年まで『素問』を手放さず研究し『素問玄機原病式』、『黄帝素問宣明論方』等の著作があります。

劉完素は熱病の治療にたけていたので、時の皇帝、金の章宗完顔が三度招聘したが、彼はその都度仕官を断ったそうです。

中国医学の歴史劉完素は臨床実践から、それまでの医家が五運六気説を機械的に運用していたのを批判し、六気は皆火化し、火熱は多くの疾病をもたらす重要な原因となるという火熱論を提唱しました。

それで「熱病の宗はは河間にあり」といわれるほどの評価を受けています。

また、劉完素は様々な病気を治療するとき、清熱通利を重要視し、寒涼の薬をよく用いたので寒涼派とも称されました。

中国の金元や宋は自由な発想で様々な学説が生まれた時代でした。

古典の解釈も考証学的に一字一句正確に読み取ろうとする漢学的なものもとても大事ですが、新たな発想で古典を解釈するということも学問としての裾野を広げ、東洋医学の幹を太くするものだと思います。

参考文献

『中医趣談』(広西師範大学出版部)
『中国医学の歴史』(伝 維康、 呉 鴻洲 編、川井 正久、山本 恒久、川合 重孝 訳、東洋学術出版)

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孫思バク(2016年8月)

中医趣談

今回は孫思バクについて簡単に紹介したいと思います。

孫思バクは京兆華原(今の陝西省耀県)の人で隋文帝の開皇元年(581年)に生まれ、唐高宗の永淳元年(682年)に没し、享年102歳の長寿でした。

孫思バクは幼少の頃病弱であったため医学を志し、死ぬまで医学の研鑽を積み、唐代以前の医学を集大成しました。

孫思バクは『備急千金要方』(略して『千金要方』)と『千金翼方』(併せて『千金方』と称する)を著しました。

書名の千金は「人の命は千金よりも貴重である」というところからきています。

孫思バクは医徳の修養を重視し、『千金要方』に医者になるのはかなりの医学の修養が必要で、また名利を求めず労苦をいとわず病人に奉仕する精神が必要と書かれています。

実際、孫思バクは医学以外にも広く学問に通じていたため、統治者から官に就くよう要請を受けますが、それを断り医学の道を貫きます。

中国医学の歴史『千金方』は孫思バク自身の経験だけでなく、他の医家の経験も広く収集しており、また薬物に関しては記載が500種類以上にのぼり、採集の仕方や加工の仕方についても詳しく記したので後に薬王と尊称されます。

孫思バクは医者の徳を非常に重要視していますが、鍼灸師においても単に学術を身に付けているだけでなく、人間性(徳)をも含んだ総合的な力が大事なのはあらためて言うまでもないことですね。

参考文献

『中医趣談』(広西師範大学出版部)
『中国医学の歴史』(伝 維康、 呉 鴻洲 編、川井 正久、山本 恒久、川合 重孝 訳、東洋学術出版)

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葛洪(2016年7月)

中医趣談今回は葛洪について簡単にですが述べてみたいと思います。

葛洪は字は稚川、号を抱朴子といい、丹陽郡句容県(江蘇省江寧県)の生れ、生年はよく分かっていませんが晋の太康4年頃と考えられています。

一般的には、それまでの道教・神仙思想を集大成した『抱朴子』を記したことで知られています。

『抱朴子』は内篇と外篇に分かれ内篇は道教・神仙思想が書かれ、外篇は儒教的なことが書かれているので厳密には『抱朴子』は道教・神仙思想だけの書物ではなく幅広く葛洪の知識・思想が書かれた書物になります。

葛洪の仙術は、左慈→葛玄→鄭隠→葛洪と伝わったとされています。

ちなみに左慈は小説『三国志演義』にも登場する有名な仙人で、葛玄は葛洪の曾祖父の子供で親類にあたります。

そんな道教・神仙思想の大家である葛洪ですが、現存する医書『肘後備急方』を記しています。

中国医学の歴史『肘後備急方』は、現在は失伝している葛洪の『金匱薬方』(『玉函方』ともいわれている)という膨大な書物を持ち運びしやすいようにコンパクトにまとめたもので、後に陶弘景が増補して『肘後百一方』を、金代の楊用道がまた増補して『附広肘後備急方』となりました。

また、葛洪の妻の鮑姑は、特に灸治療の方面で突出した医師であり、後に広州越秀山の麓の三元宮に鮑姑殿が設けられ鮑姑を讃えるための金の像が造られました。

『肘後備急方』の中に灸法の記載があるのは夫婦二人の協力によって為されたものだと思われます。

葛洪は、道教・神仙思想だけの研究家ではなく、夫婦で志を同じく医術を行い、人々を救った医家でもあったんですね。

参考文献

『中医趣談』(広西師範大学出版部)
『抱朴子・列仙伝』(尾崎 正治、大形 徹、平木 康平著、 角川書店)
『中国医学の歴史』(伝 維康、 呉 鴻洲 編、川井 正久、山本 恒久、川合 重孝 訳、東洋学術出版)

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張仲景(2016年6月)

中医趣談今回は張仲景について簡単に紹介したいと思います。

張仲景、名は機、仲景は字、後漢の終わり頃、南郡涅陽(今の河南省南陽県)の人、仕官して長沙の太守となります。

張仲景は青年の頃、同郷の張伯祖より医学を学びました。

張仲景の一族は二百人余りいましたが、そのうちの三分の二が亡くなりました。

亡くなった人の七割は傷寒病(伝染性の急性熱病)でした。

そのため張仲景は医学の研鑽を重ね、後に『傷寒雑病論』を著します。

張仲景の著した『傷寒雑病論』(『傷寒卒病論』ともいう)は中国医学において非常に重要な役割を果たしました。

一言で言うと『傷寒雑病論』は『黄帝内経』の基礎理論を継承、発展させて弁証論治の基礎を作りました。

そんな『傷寒雑病論』ですが戦乱などで散失します。

中国医学の歴史その後、傷寒の部分は晋の時代の王叔和、唐の孫思バクなどにより散失した部分が収集され、宋の時代に林億らによって正式に『傷寒論』として出版されます。

雑病の部分も孫思バク、王洙などにより収集され、宋の時代に『金匱要略』として刊行されました。

そんな張仲景は後世では医聖と称され、伝説的な話もいくつかあります。

次の話は『鍼灸甲乙経』の序文にも載っている話で、内容はこうです。

張仲景と20代の王桀(字仲宣)が会ったとき、「王さん、貴方は病気だ、もし五石湯を服用すれば、病根を取り除くことも可能だ、そうしないと40歳前後で眉が落ち、生命の心配もある。」と張仲景は言った。

王桀はその話を不愉快に思い、薬を飲まなかった。

その後しばらくしてから二人が再び会い、張仲景が王桀に薬を飲んだか聞いた。

王桀は「もうすでに飲んだ」とうそを言った。

張仲景は「気色を見れば、薬を飲んでない様子が分かる。君は何で命を軽んじるのだ。」と言った。

王桀は何も言わなかった。

その後、不惑の年になったとき、果せるかな眉毛が脱落し、だいたい半年ほどで張仲景の言った通り亡くなった。

張仲景の医聖と呼ばれるのに相応しい伝説ですね。

参考文献

『中医趣談』(広西師範大学出版部)
『中国医学の歴史』(伝 維康、 呉 鴻洲 編、川井 正久、山本 恒久、川合 重孝 訳、東洋学術出版)

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前漢の名医 太倉公・淳于意(『中医趣談』より)(2016年5月)

今回は太倉公・淳于意について、前回同様『中医趣談』(広西師範大学出版部)を参考に紹介したいと思います。

中医趣談淳于意は前漢で唯一名医として正史に出てくる。かつて斉の国の倉庫の役人・太倉長だったので、後の人は彼のことを倉公或は太倉公と称した。

彼は若い時公孫光門下の学医の下に身を投じた。

後に公乗陽慶師のところに投じ、多くのことを専門に修め、尽くその真伝を得た。

公乗陽慶は大切に保管していた黄帝や扁鵲の書を淳于意に伝えて助けた。

この時、淳于意の医道、医術はすでに成熟しており、彼は病を診るのによく五色(望診)を用いた。そのうえ人の生死(病の予後)がよく分かった。

テイエイ父を救うは『史記』に記載され人口に膾炙されている故事である。淳于意は勢力のある貴族の病を診るのを断った為無実の罪で訴えられた。漢の文帝十三年捕えられ投獄され、判決で足を切られる刑となる。

淳于意の娘のテイエイは父に随って長安の都に来た。文帝に上書し、自分を罰として国の奴婢にする代わりに父親の罪を赦してくださいといった。

文帝は少女の孝行に尽くす姿と大胆にも上書する勇気に感動して、特別に淳于意を釈放した。

診籍(カルテ)は倉公淳于意によって初めて創られた。

彼が漢の文帝の召見を受け入れた時、詳細に25の症例を紹介した。一つの症例ごとに病人の姓名、性別、職業、居留地、病理、診断、治療、予後状況等詳細に紹介した。これは文献として最も早く見られるカルテである。

25例のカルテのなか淳于意の望診が優れているのを反映している例が数例ある。

斉の宰相の家人の如きは自分では病気を自覚していなかった、しかし淳于意は望診で色を診て病気があるのが分かった。望診すると殺然とした黄色が診られ、死青が増えていくのが察せられた、これは脾気が傷られ、まさに春に至っては膈が塞がり気が通ぜず、飲食が能わず、夏に至っては下血し死すだろう。

その後、家人は次の年の春に病を得、夏に入ると下血し亡くなった。

淳于意は脈診にとりわけ精通していた。25の症例中10例は脈診によって診断された.斉の国の淳于司馬が病に罹った。多くの医師は死症と断じた。淳于意はこの脈を診て、この病は順証で治ると診た。火剤を米のとぎ汁で飲ますと病は癒えた。

淳于意の人柄は控えめで誠実、だが飾らないところが短所である。

漢の文帝がかって淳于意に聞いた。「病を診て死生を決す(予後を判断する)のに全く失敗が無くできるか」と。彼は答えて言った。「時々失敗する。私は全て出来るということは無いと思う」と。

(『中医趣談』「太倉公」より引用。福田訳)

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中国医学の祖 黄帝(『中医趣談』より)(2016年4月)

今回は中国医学の祖とされる黄帝について『中医趣談』(広西師範大学出版部)を参考に紹介したいと思います。

中医趣談黄帝は伝説では中国の夏族の祖先であり、古代中国医学の鼻祖である。
彼は有熊一族の少典の子で、姓は姫、姫水(現在の陜西省内)で生まれ育った。
伝説では黄帝は竜顔(君子の容貌)を持ち聖人の徳があり、生れながらにして良くものを話し、天下万物全ての事に秀でていた。
彼は長江の南や北、黄河の上流や下流など様々な所へ行き、師を探しては学んだ。
東は青丘へ行って紫府先生に会って万神に効のある三皇天文を授けられ、具茨へ行って大隗君に会って神芝図を授けられ、蓋上へ行って中皇真人に会って九茄散を授けられ、羅霍へ行き黄蓋童子に会い金銀十九帖を授けられ、コウドウへ行き広成子に会い自然経を授けられた、峨眉山を訪れ黄君に会い真一経を授けられた、金谷に入り導引養生について問い玄素二女の著作について聞いた。
身近にいる医学に詳しい雷公、岐伯、伯高、少兪などの経験を集め終に脈書を成す、またその他に難しい問題を一通り問い内外十八巻の即ち『黄帝内経』を書いた。
かって王屋山に登った時、宮門の下で三日斎戒をし宮門を登っていくと、うつくしい林があり玄女九鼎丹を得る幸運があった。
また茅山で銅を煮た薬を採ったり、荊山の千鼎湖の上に煉丹の炉を建てた。

(『中医趣談』「国医之祖」より引用。福田訳)

上記のとおり黄帝は伝説上のヒーローです。
司馬遷の『史記』の一番最初、五帝本紀も黄帝の話から始まります。

中国の歴史上、東洋医学以外の分野にも、黄帝の名の着いた書物がたくさんあります。
それだけ多くの人が黄帝に想いを託して書物を書いたのでしょう。

『黄帝内経』も黄帝に想いを託したそんな本の中の一冊なのだと思います。

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戦のない世を目指して 〜戦国スーパードクター 曲直瀬道三〜(2016年1月)

1月13日(水)にNHKで放送された歴史秘話ヒストリアは「戦のない世を目指して 〜戦国スーパードクター 曲直瀬道三〜」と題して 曲直瀬道三についてでした。

曲直瀬道三は日本漢方のなかの後世派というとても大きな流れを作った名医です。

日本漢方の流れとしては後世派のほかに古方派、折衷派などがあります。

歴史秘話ヒストリアのなかでは、師である田代三喜との出会い、毛利元就の治療、弟子の施薬院全宗との関係などをドラマ仕立てで、文字通りドラマチックに描いていました。

番組ではでていませんでしたが、田代三喜はその当時の中国である明に渡り、明で李朱医学を学び、それを日本に持ち帰っています。

また曲直瀬道三がキリスト教に入信するのも単にキリスト教の博愛精神に共感しただけでなく、宣教師を通じて西洋の医学をも学び自身の医学を向上させたいという思いもあったようです。

曲直瀬道三が灸を多用したことから番組では、長野先生、谷岡先生など鍼灸師の先生が灸をしている場面なども映し出されていました。

曲直瀬道三の他にも日本には永田徳本、吉益東洞、後藤艮山などや、鍼灸の方では杉山和一、石坂宗哲などまだまだ興味深い名医達が沢山います。

今後も、もっともっと、多くの名医達が取り上げられるのを切に願います。

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漢方薬の保険適用外の動き(2015年9月)

今年6月に財政制度等審議会が「財政健全化計画等に関する建議」を出しました。

そのなかで国民皆保険を維持するための公的保険給付範囲の見直しとして市販品類似薬等に関する内容もありました。

以下のとおりです。

「医療用医薬品については、使用実績があって、副作用の発生状況等からみて市販品としても適切であると認められれば、市販(スイッチ OTC)が認められる。これらについては、公平性の観点、セルフメディケーション推進の観点から、保険償還率をその他の医薬品よりも低くすべきである。さらに、長らく市販品として定着した OTC類似医薬品(シップ、目薬、ビタミン剤、うがい薬やいわゆる漢方薬などのうち長らく市販品として定着した銘柄)については公的保険から完全に除外すべきである。」

それを受けて政府の「骨太方針2015」でも、
「医療・介護提供体制の適正化、インセンティブ改革による生活習慣病の予防・介護予防、公的サービスの産業化の促進、負担能力に応じた公平な負担、給付の適正化、薬価・調剤等の診療報酬に係る改革及び後発医薬品の使用促進を含む医薬品等に係る改革等に取り組む。」
となり、まだ正式に決まったわけではありませんが、漢方薬の保険適用外の可能性が出てきました。

医療費が年々増加していくなか、どこかを減らしていかなくてはならないのはしかたないのかもしれません。

漢方薬と鍼灸で業種は違いますが、同じく東洋医学を生業としている者としては残念です。

また、北海道は漢方生薬の産地でもあるので農家の方々への影響も心配です。

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北海道での薬用植物生産(2015年2月)

漢方薬で通常よく使われる生薬は200種類ほど、北海道で生産可能とされているのはその中の60種類ほどですが、実際に現在北海道で生産されているのはたった15種類ほどだそうです。

北海道での薬用植物生産の歴史は古く1700年代松前藩の人参の栽培からになります。

1070年代までは北海道各地での薬用植物の栽培は盛んでしたが、1972年の日中国交正常化以降は安い中国産に押され衰退していきます。

近年中国産の生薬も価格が高騰してきており、また日中関係に左右されない原料確保の観点からも日本国内での漢方薬原料の栽培の必要性が高まっています。

現在日本国内生薬使用量の12%ほどが日本国産で中国産は81%になります。(2010年度)

そんななか大規模な北海道での薬用植物生産の取り組みが始まっています。

帯広での「センキュウ」「ダイオウ」の栽培や、豊浦町での「トリカブト」、名寄での「トウキ」「カノコソウ」、函館での「トウキ」、日高での「カンゾウ」、八雲町での「トウキ」「ソヨウ」の栽培などがあります。

また夕張に株式会社ツムラの子会社の株式会社夕張ツムラがあり北海道で原料生薬の生産・加工・保管事業も行っています。

日本国内産の漢方生薬を増やすためにも、北海道でもっと薬用植物の栽培が増えることを心から望みます。

漢方薬関連の参考サイト

株式会社夕張ツムラについては、「漢方のツムラ公式サイト」の「ツムラについて」から「ツムラグループ」をたどるとご覧いただけます。

また、今回の記事でご紹介した生薬については、「武田薬品工業株式会社 タケダ健康サイト」、「養命酒製造株式会社の公式サイト」上等で、各生薬の解説をしておりますので、そちらもご参照ください。

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秋は燥邪と肺の臓にご注意を(2014年9月)

お盆を過ぎて、札幌は秋らしくなってきました。

秋は六気(風・寒・暑・湿・燥・火)では燥の影響を受けやすい季節であり、五臓では肺の臓の季節でもあります。

燥の邪の特徴としては以下のようになります。

  • 乾渋で、傷津耗液しやすい(乾燥する働きで、体の陰(水)を減らす)
  • 肺と相応する(燥邪は肺と関係が深い、肺は乾燥に弱い)
  • 外燥と内燥がある(外燥は外的環境の乾燥で、内燥は内的環境・体のなかの陰(水)が不足している状態です)

この秋の時期は燥邪肺の臓に少し気を配って生活することがとても大事になります。

夏は火邪・暑邪と心の臓にご注意を(2014年6月)

6月になりました。

リラ冷えも過ぎ、札幌もようやく夏らしくなってきました。

夏は六気(風・寒・暑・湿・燥・火)では火・暑の影響を受けやすい季節であり、五臓では心の臓の季節でもあります。

火邪・暑邪としては以下のようになります。

  • 陽邪で熱性、上炎する(熱症状で上部にでやすい)
  • 傷津耗気しやすい(身体の中の水や気を損耗する)
  • 暑は多くは湿を挟む(湿邪と熱邪が合わさり易い)
  • 火は生風動血しやすい(けいれん・こわばり・出血などしやすい)
  • 火は瘡瘍を発しやすい(できもの・腫れものができやすい)
  • 暑邪は外邪のみであるが、火邪は外邪と内邪がある(火邪は体外環境だけでなく体内環境のアンバランスからも生じる)

※火邪と暑邪は同じ陽熱の邪で違いが難しいですが、火邪は夏の前半で熱邪が主体であり暑邪は夏の後半で湿熱の邪であることが多いです。

この夏の時期は火邪・暑邪心の臓に少し気を配って生活することがとても大事になります。

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春は風邪と肝の臓にご注意を(2014年3月)

もう3月に入りました。

札幌はまだ寒いですが、日差しは大分春らしくなってきました。

春は六気(風・寒・暑・湿・燥・火)では風邪の影響を受けやすい季節であり、五臓では肝の臓の季節でもあります。

風邪の特徴としては以下のようになります。

  • 陽邪である(身体の上部・皮膚などの外部に向かいやすい)
  • 遊走性(部位などが変化しやすい)
  • 動を主る(けいれん、ひきつり、ふるえ、めまいなど)
  • 百病の長である(他の邪と一緒になって身体を襲う)
  • 肝と相応する(肝の臓と関係が深い)

この春の時期は風邪肝の臓に少し気を配って生活することがとても大事になります。

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冬は寒邪と腎の臓にご注意を(2014年1月)

あけましておめでとうございます。

本年も無事にお正月を迎えることができました。

これもひとえに太玄堂を支えてくださる家族、友人そして患者の皆様のお蔭だと思っております。

少しでも皆様方にお返しができるように本年も精進したいと思っています。

さて、年も明けて寒い日が続きますが、今月、1月20日は大寒で、暦の上ではこの頃が一番寒いときになります。

東洋医学では気候が人体に与える影響は大きいもので病気の原因にもなると考えられています。

人体に与える気候の影響は具体的には風・寒・暑・湿・燥・火の6つに分けられ、冬はこの中の寒が大きなウエイトを占めることになります。

寒(寒邪)の特徴は以下のようになります。

  • 寒邪は陰邪で陽気を傷りやすい(寒邪は陰陽で分けると陰の邪なので陽の気を損傷しやすい)
  • 寒邪は収引する(寒邪は経脈を拘急させ筋肉をひきつらせる)
  • 寒邪は凝滞する(寒邪は気や血を凝滞させる)
  • 寒邪は腎と相応する(腎は寒邪の影響を受けやすい)

この冬の時期は寒邪腎の臓に少し気を配って生活することがとても大事になります。

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