東洋医学簡史「日本編」
太古~奈良朝以前(~710年)
太古における日本の医療は、シャーマンによる医療と薬草によるものが主で、中国の歴史の最初での説明とほぼ同じような形態だったと思います。
それが祟神天皇以後の時代から朝鮮半島を経由して(後には直接中国から)、中国医学、インド医学が入ってくることとなります。日本の医学が大きく変貌を遂げていく時代であります。
奈良朝時代(710~794年)
この時代は僧医が中心の時代です。また日本で最初の病院である、施薬院が光明皇后の意により作られます。日本で最初の病院は、実はお寺だったんですね。
面白いのは、巫術によって病を治療することは政府によって禁止されているけれど、僧侶がお経による祈祷により病苦を救うのは認められていたことです。
僧侶は薬草や鍼灸などによる治療だけでなく、呪術も兼ねて治療を行っていたということですね。
平安朝時代(794~1192年)
仏教が益々盛んになり、医学も中国からの情報が増え模倣した時代でした。ただ、医学の情報が増える一方で、中国思想とインド思想が融和せず、混淆した時代でもありました。
面白いのは、日本の古伝の治療が失われるのを憂いだ平城天皇の命で、日本古伝の治療法を集めた『大同類聚方』という本ができたことです。
また、このころ日本最古の医学書『医心方』が丹波康頼によってつくられました。
ここで唐突ですが、トリビアな話を一つ。「丹波康頼は霊界に詳しい丹波哲郎の先祖である。」
「へ~、へ~、へ~」
実は、この話本当の話なんですよ。さすが、丹波さん、だてに霊界に精通されているわけではなさそうです。最近テレビに出られていない丹波さんですが、是非元気な姿で戻っていただきたいものです。
鎌倉時代(1192~1338年)
それまでの貴族の政治から武士の政治へ変わり、世の中が大きく変化した時代です。漢学は一時的に衰えましたが、それまでの中国の単なる模倣から、独自の文化が生まれてきた時代でした。
医学においても、この頃の医書は中国の医書の単なる抄録ではなくわが国の経験を加えたものになっています。
室町時代(1338~1570年)
応仁の乱という長い戦乱の後、学問の世界は暗黒の時代となりましたが、足利学校や金沢文庫など諸侯のなかに学問を奨励するものがあり、完全に衰退することはありませんでした。
この頃、医学では、明より帰った田代三喜が李朱医学(金元四大家の李東垣、朱丹渓などの医学)を唱道しました。(田代三喜は12年間明で学んでいるんですよ~。現在中国に留学している日本人は多数いますが、すでに室町時代に医学留学していたんですね。田代さんはエライ!!!)鎌倉、古河、武蔵などの東国に住み、一世を風靡し、日本における李朱医学(後世派)の開祖となりました。しかし、田代三喜は地方にいたため、彼の医学は日本全国には広まりませんでした。
安土・桃山時代(1570~1603年)
この時代のトピックはなんといっても曲直瀬道三(まなせどうざん)の登場ですね。曲直瀬道三は田代三喜に学び京都に帰り李朱医学を広めました。曲直瀬道三により李朱医学が日本全国に広まり、これが日本漢方の大きな一つの流れとなり、これを後世派といいます。
面白いのは、この頃、甲斐に永田徳本という一服十八銭で諸国をまわって薬を売り歩いた名医がいて、徳川秀忠が病気になったとき、誰も治せなかったのを治し、秀忠が褒美を取らせようとしたのを一服十八銭と言い、薬代のみ受け取って去ったという話があります。(カッコイイ~!!)
あと、戦国時代から金創医という刀傷、鉄砲傷を治す医者たちが出てきます。漢方で刀傷、鉄砲傷も治せるんですよ。
鍼灸においては、入江流、吉田流が生まれました。入江頼明は、豊太閤の医官園田道保に就き、鍼術を受け、朝鮮の役の時、明人呉林達(ごりんたつ)の伝を受け、技術を深め名をあげました。吉田意休(よしだいきゅう)は出雲大社の祝(しゅく)でしたが、明に赴き、杏琢周(きょうたくしゅう)に七年学んで帰朝し、その技術を世に広めました。
この時期、御園流(みそのりゅう)打鍼術というのが生まれます。これは日本独自の画期的な鍼術で、金や銀の鍼を小槌で打ち込むものです。伝説では多田二郎為貞(ただじろうためさだ)という鍼の名人が、花園天皇が愛玩している牡丹が枯れそうなのを鍼をして治し、その褒美で御園という名をもらったそうです。(ほんまかいな)
別説では夢分斎という者があり、はじめ禅僧でしたが、いろいろな治療を受けても治らない自分の母親の病気を治すために様々な鍼を学び、打鍼術を開発し、その後に多くの人を治したというものです。(感動的な話ですね)
江戸時代初期(1603年~)
曲直瀬道三の門下からは多くの優秀な医師が生まれ、後世派の医術は、天下に広く行われました。名古屋玄医という人物があらわれ、喩嘉言(ゆかげん)の『傷寒尚論(しょうかんしょうろん)』、『医門法律』に基づき、張仲景、巣元方を師とし、古医方(古方派)を唱道しました。簡単にいうと、いろんな理論が出てきて理論先行になったのを、古典に立ち返り、臨床実践によって論を立てるべきであるという立場の人です。
鍼灸においては、幕府の命により杉山和一が鍼治講習の所を設け、鍼灸を業とする者のほとんどは、その門から出ました。いわゆる杉山流鍼術です。
杉山和一は、初め山瀬琢一に鍼を習いますが、「和一性鈍ニシテ技進ムコト能ハズ、遂ニ師ノタメニ遂ハル」つまり出来が悪かったため、師に破門されるんですね。和一は目が不自由だったため鍼しか自分の道はないということで、江ノ島の弁天様に詣で断食をしながら祈るわけです。そうすると夢の中に鍼と管が出てきて、そこから鍼管によって鍼を刺入する方法が出来たという伝説があります。(鍼管によって鍼を刺入する方法は、中国鍼術にはない日本独特のすぐれた技術ですが、こんな不思議ないわれがあるんですね。)
江戸中期
古方派で後藤艮山(ごとうごんざん)が登場します。古方派は名古屋玄医によって唱えられ始めるのですが、その時には広まらず、後藤艮山によって広まっていきます。彼の門下からは多くの優秀な医師が輩出されます。彼は一気留滞説を唱えます。これは、簡単にいうと、病は気の留滞によって生じるという説です。温泉、熊の胆、お灸を用いることが多く、湯熊灸庵と呼ばれました。
さらに、古方派の大家、吉益東洞(よしますとうどう)が出て、万病一毒論を唱えました。これは、病は毒によって生じ、毒(薬のこと)をもって毒(病のこと)を制するという考え方です。
鍼灸においては菅沼周圭(すがぬましゅうけい)が鍼灸復古を唱えます。
江戸後期(~1868年)
この時代は折衷派が一つの大きな流れとなりました。これは漢方の古今諸説を偏取しないという考えかたです。多紀元簡(たきげんかん)、多紀元胤などがその代表です。この流れから、後に大正天皇を治して有名になった浅田宗伯が出ます。(医者というより浅田飴の方が有名かも。ニッキ!クール!パッション!いろんな種類がありますね。私はニッキ派です)
もう一つは漢蘭折衷派という流れがあります。漢方と西洋医学の折衷で、これは江戸中期の山脇東洋からの流れですが、この時代に大きな潮流となりました。
鍼灸では石坂宗哲(いしざかそうてつ)が有名で、独自の理論を持ち、石坂流鍼術といわれています。シーボルトに鍼を伝えたことでも有名です。
明治時代以降(1868年~)
ペリーの来航により、開国を余儀なくされ、富国強兵の号令のもと、西洋式の軍隊を導入するに及び、医学においても、西洋の医学を導入するという政府の意向となりました。西洋医学を学ばなければ医者の看板をあげることができず、東洋医学は医学の中心からはずれることになりました。
現代における日本の東洋医学事情
近年、欧米を中心に、漢方薬、鍼灸などの東洋医学が、すぐれた医療技術として認知され、積極的に取り入れられています。一方、日本では、漢方薬は一部保険適用され、医師の処方のもと、西洋薬の補助的役割として、医療現場に取り入れられています。
鍼灸は、1993年に国家資格化され、国家資格を有していれば、鍼灸院を開業することが可能です。しかし、長い伝統で培われた理論と実績が高く評価されているかというと、現状はそうともいえず、鍼灸のすばらしさを知るものとして、残念な状況です。このウェブサイトを通して、少しでも東洋医学の良さを知っていただき、鍼灸が、みなさまの身近な治療として理解してただけるよう、情報発信をしていくつもりです。
最後に補足ですが、「現代における中国医学」でご説明したように、「中医学」という言葉は、毛沢東以降に成立した中国伝統医学体系を指します。しかし、当サイトでは、「中医学」だけでなく、歴史ある中国や日本の伝統医学についても情報を提供していきたいと思っています。
以上で東洋医学簡史を終わります。
東洋医学簡史「日本編」参考文献
『医心方〈巻25A〉小児篇1』(丹波 康頼著、槇 佐知子翻訳、筑摩書房)
『日本医学史』(富士川遊著、日新書院)
『日本医学史綱要〈1〉 (1974年) (東洋文庫〈258〉)』(富士川遊著、平凡社)